苦楽をともに。
人生いろいろだ、最近、つくづく心からそう思う。
実は、体調を大きく崩した。
大げさに言うと、一瞬、死ぬかと思ったほど。
ここ、1,2年、時々、体調が悪いときがあった。
一切誰にも言わなかったけど。
今回、さすがに一瞬でも死を覚悟するほどの体調不良だったので、これはマズイと思った。
家族に相談し、自己診断し、なるほどなと。
それで、いつもとってもお世話になっている先輩に相談。
そして治療を開始。
すると、最近の激しい体調不良と、ここ数年のことが嘘のように、いい方向へ。
ひとまず安心だけど、苦悩はまだまだ続く。
ちなみに医者の不養生ではない。昔からの持病の再発。
(もう一つ強調しておきますが、過労とか、働きすぎとか、そういうのでは一切ありません)
体調不良をカミングアウトして、お涙頂戴とか、同情されたいとか、共感されたいとか、そういうことでも全くない。
単なる報告。
医者のぼくも人間だし、たまには体調も悪くなりますよ、そりゃあねと。
(大げさに言えば)一瞬でも死を覚悟したのは、さすがにショッキングだったので、一大決心をした。
それは、診療制限。
まだ、もう少しは医者でいたいので、少し自分の身体もいたわって、身の丈にあった診療を心がけようと。
ところが、これは、医師・松嶋にとっては一大決心であり、苦渋の決断。
医者になって21年、ぼくは、ほぼ一貫して24時間365日、闘ってきた。
昼夜、平日休日問わず、海外にいても、連絡はいつもくる。
そんな生活が当たり前だったし、それが医者だと思っていた。
ただ、40代も半ばになって、この生活をいつまで続けられるかなと考え始めてもいた。
そんな中、今回の極々わずかながらの死を感じた体調不良で、考えが急加速した。
そうだ、ぼくも人間だ。
いつか死ぬ。
それは今日かもしれないし、明日かもしれない。
いつ死んでも良いように日々最善を尽くしているつもりだったけど、正直、もう少し生きたい。
自分の目で、自分の手で、送り出さなければならない患者さんが少なくない。
両親より先に死ぬわけにはいかない。
家族のこどもたちの幸せをもう少し願っていたい。
あぁ、なんて大げさな。
でも、そう思う。
診療制限は、週2日くらいは、夜はぐっすり眠らせてほしいと。
そのくらい、人間としては当たり前だと思うけど、ぼくは医者だ。
患者さんが苦しいとき、つねにそばにいたいし、伴走したいし、最善を尽くしたい。
それが、2日できなくなるかもしれないと思うと。。
この診療制限にて、数名の患者さんの主治医を離れることになった。
残念だが仕方がない。
その方々にとって、万一でも医者が往診してくれないのはしんどいだろうから。
一方、多くの患者さんが、この診療制限を受け入れてくださった。
それだけではなく、「お大事に」とみんなに声をかけてもらった。
こんな幸せな医者はいるだろうか。
ぼくは、これまで、医者として、患者さんの苦にわずかであっても伴走してきたつもりだ。
そして、ぼくの楽しみを存分に提供もしたし、患者さんの楽しみも分けてもらった。
まさに、苦楽をともに。
でも、ぼくの苦を患者さんに見せることは絶対にしてこなかったし、しないつもりでいた。
けど、今回は、苦を見せざるをえなかった。
これで、正真正銘、苦楽をともに、となった。
患者さんの苦楽、ぼくの苦楽。
苦楽をともに、これから、さらに一緒に歩んでいきたい。
追記
こんな町医者を主治医に指名してくださる患者さんに感謝いたします。
がんばります。
こころのバリアフリーの実現を、なないろ未来財団に託します。<一般財団法人なないろ未来財団設立趣意書>
2020年7月14日、一般財団法人なないろ未来財団を設立しました。
その趣意書全文を掲載します。
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今、思い返してみますと、曽祖父は、今でいう認知症を患っていたのだと思います。
ある時、衝撃的なことがありました。
祖父が曽祖父を、「バカ呼ばわり」したのです。
当時のぼくは、いまだ小学校低学年でしたので、意味が全く分かりませんでした。
なぜ、身内、まして実の父親を「バカ呼ばわり」できるのか。
ぼくは、曽祖父はもちろんのこと、祖父も大切な家族でしたし、どちらも大好きでしたから、全く意味がわかりませんでした。
祖父に対して負の感情は、ただこの一件のみで、どうにも腑に落ちませんでした。
ただし、祖父に問いただすことはできませんでした。なぜ、実父を「バカ呼ばわり」したのか。尋ねる前に、祖父は他界しました。
その後、祖父の三回忌くらいだったと思うのですが、祖母に思い切って聞いたのです。
祖母は静かに教えてくれました。
祖父は決して本気でバカ呼ばわりしていなかったと、実は、誰も聞いていないところでは「何か、親父に、美味いものでも食べさせてやってくれ」と祖父が祖母にしょっちゅう依頼していたと。
祖父への誤解が解けました。
大好きな祖父はやはり大好きな祖父でした。
と同時に、ものすごく寂しい気持ちになりました。
なぜ、実の親子なのに、堂々とやさしくできなかったのだろうと。
きっと、当時は、今以上に、社会全体が認知症に対して厳しい時代、家族もまた厳しくすることが時代の標準だったのかもしれない。そう考えると、祖父は父親をバカ呼ばわりするのは、不本意ながら建前でやっていたのかもしれないと思うと、とっても悲しくなったのです。
だから、祖父は何も悪くない。
悪いのは、認知症(当時は痴呆症)に対する偏見や差別に満ち溢れていた当時の社会なのだと。
今、認知症への偏見や差別は、間違いなく、曽祖父が生きていた時代よりも少なくなっています。
もし、今、曽祖父と祖父が生きていたのなら、変な建前をせずとも、祖母を介さなくとも、祖父自身で曽祖父にやさしく接することができたのではないかと思うのです。
そう考えると、大切な家族をも分断しかねない、社会にある様々な偏見や誤解、差別を恨まざるを得ないと思うに至りました。
僕らは、誰一人とて同じ人間はいません。
年齢や性別の違い、病気や障がいの有無はもちろんのこと、背が高かったり低かったり、足が早かったり遅かったり、本当にいろいろな違いがあります。
しかし、その違いは、どれもかけがえのないものです。
どれが優秀で、どれが劣っているということは絶対にないと思うのです。
違いのすべてが尊く、尊重されてしかるべきです。
前出の認知症も全く同じ。認知症があってもなくても、私たちは同じ人間。認知症の有無で区別されることはあっても、差別されることは絶対にあってはいけないと思うのです。
あらゆる違いが尊重され、絶対に差別されることがない社会。
すべての人が、平等に、対等に、分け隔てなく、豊かに暮らせる社会。
僕はこれを、「こころのバリアフリー」な社会と呼びます。
僕の祖父や曽祖父がきっと味わったであろう悲しみや苦しみが、ぼくら世代、そして次世代の方々が同様に味わうことがありませんように。そのために、社会全体がこころのバリアフリーで満ち溢れますように。
この実現を、今回、創設したなないろ未来財団に託します。
令和2年7月14日
一般財団法人なないろ未来財団
設立者 松嶋大
玄米甘麹豆乳で健康をサポートしたい! 〜なないろのとびら診療所でクラウドファンディングに挑戦中〜
奇跡ではなく必然。ただし最後は情熱と愛情だ。
90歳弱の大好きなおじいちゃんが体調を崩し、手術を受け、リハビリを進めている中、食べられなくなったと、ご家族から相談を受けました。
(すみません、最大級の敬意を表して、おじいちゃんと書きます。決して軽々しいつもりはありません)。
経過を伺いました。
なるほど、そういうことかと理解しました。
病院には本当に失礼と思いましたが、それ以上のリハビリも難しそうだったので、経管栄養にしたのちに、すみやかに退院していただくことにしました。
そのおじいちゃんは、ほぼ寝たきりで、鼻から管が入った状態(経鼻経管)で戻ってきました。
一気に、治療とケア、リハビリをしました。
退院から2時間後、目が覚め、座位保持ができました。
さらに2時間後、元気いっぱいに自分で管を抜きました。
夕方、食事を口からちょっと食べられました。
夜には寝ぼけもあったのでしょうが、なんと、歩きました。
翌日は、ちゃんと起きている状態で歩けました。
薬も、食事もなんとか口から。
翌々日には、自分で歯も磨けるようになりました。
しかし、その後、落とし穴が。
肺炎です。
万事休すかと思いましたが、諦めず、治療を進めました。
ご家族には、さすがに限界かもと伝えて、看取りの話も語りました。
ご家族もぼくも悲壮感溢れていましたが、翌日、プチ復活。
その後、復活基調へ。
経管栄養だった90歳近くの超高齢男性が、食べられ、歩ける状態にまで復活。
これだけ聞くと、奇跡と言われます。
しかし、ぼくにとっては、超偉そうにいえば、必然な結果です。
症状が固定化する前に早期に手を打てたこと、そして、看護やリハビリ、調理師たちの最善の賜物であることを強調しておきます。
奇跡ではなく必然です。
でも、最後は、愛情と情熱ですよ。
だって、すごく大好きなおじいちゃんで、すごく治したかったですもの。
まだまだ油断できず。
愛情で押し切ります!
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★クラウドファンディング、挑戦中!
不幸なことだ、でも光栄だ。
(事実に基づきますが、個人情報もあるため一部フィクションです)
「本来は不幸なことですよね」
後部座席に座る患者さんのご家族に、ぼくは少しだけ振り返りながら話した。
そうですね、と言われたのか、あるいは頷かれたのか、よく覚えてはいない。
患者さんは、とある大学病院を退院し、片道数十万円をかけて、数百キロを超えてやってきた。
わざわざ、だ。
どうみても大学病院に入院していたほうがいいだろうし、何より、人生の本当の最期において、地元を離れ、見ず知らずの土地に来ること。
そんな不幸なことはない、と思ったのだ。
1ヶ月ほど前に、ご家族から電話があった。
受診したいと。
あまりに遠いからと、もう少し近くのクリニックをお勧めした。
ちょっとして、やっぱり受診したいと連絡があった。
わざわざの受診は大変だろうと、オンラインでお会いした。
「死に方の問題だね」と伝えて、そこは合意できたかもしれない。
厳しい状態だったが一か八かと思い、一旦受け入れることにしたけどほどなくやめた。
理由は、助けられないと思い、こちらに来て死んでしまうと確信したから。
死に方としても良くないと思ったのだ。
その後、家族からは何度もご連絡をいただいた。
なるほど、これは死に方の問題だとあらためて思った。
だから、本人にリアルで会い、家族にリアルに会い、語り合うしかないと思った。
診療を早く切り上げ、新幹線で向かうことにした。
17時台に乗れば、最終で当日中に帰ってこれるから。
「明日、夜に会いに行きます」とメールを打った。
いつもならばレスポンスが早いメールがなかなか帰ってこなかったが、当日になってやっと返事が来た。
「入院しました」と。
実はホッとした自分がいた。
もしかして助かるかも、と思ったのだ。
その後、入院中に報告のメールが来た。
あらためて、「死に方の問題だ」と思い直した。
一方で、一か八か、最期のかけのような治療の余地も残されているのではとも思った。
どちらにせよ。
三度目の正直。
大学病院をほぼ無理に退院し、数時間かけて、数百キロを超えて、オークにやってこられた。
盛岡の施設で受け入れるという考えもあったが、オークがいい、直感的にも、洞察的にもそう思ったのでオークにした。
点滴やら、人工呼吸器やら、大学病院でも全くやらなかったという治療をどんどんやった。
体力を考えるとそうとうしんどい治療だったはずだが、本人は苦しい顔を見せることなく、むくみも痰の絡みもなかった。
翌日、天使の顔になった。
いらっしゃったときの渋い顔は消えていた。
あれ、もしかして治療が奏効したのか?
ぬか喜びだった。
その翌日、旅立った。
ずっとかくれんぼしていた岩手山が久々に顔を出し、雲に一切邪魔されることなく、一部始終を見届けてくれた。
不謹慎だが、この旅立ちを、良い意味で祝福してくれたように見えた。
岩手に来てくれて、ありがとうと。
濃厚な三日間が終わった。
同行されたご家族は、隣のベッドを使いながら、四六時中、そばにいらっしゃった。
最期のときもずっとそばに。
献身的という月並みな言葉しか出ないぼくを、恥じたい。
あらためて思う。
不幸な話だ。
地元を離れ、来たこともない岩手に、そしてこんな医者に見てもらって。
でも、ぼくにとっては、これ以上ない光栄なことだった。
だって、大学病院を退院して、ぼくらにかけてくれたんですよ。
だって、数百キロ、数十万円かけて、ぼくらのところに来てくれたんですよ。
こんな光栄な話はないですよね。
治せなかったことを、まずはお詫びしたい。
ただし、最期の場所として、最期の主治医として、八幡平を、僕を指名してくれたことに、ただただ光栄だった、今はただそう思う。
ありがとうございました。
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★クラウドファンディング、挑戦中!
一歩踏み出し、一歩踏み出すこと。そして手と手を取り合う。
いつものように訪問診療に行くと、本当にタッチの差で、電動車いすでお出かけしたところだった。
まだ家を出て数秒のところだったので、声をかけて、そのまま家に戻って、診療をすることも不可能ではなかったけど、せっかくだから、後からこっそりついてゆくことにした。
(尾行みたいで恐縮だったけど、一切の悪意もありませんでした)
数分後、近くのスーパーに到着。
丁寧に電動車いすを置き入店された。
ぼくもちょっと離れて一緒に入る。
慣れた雰囲気で買物をする、その方に近づく。
「とくさん、こんなところで奇遇ですね」と、あたかも偶然を装い、声をおかけした。
「おぉー、先生、奇遇だね」とお返しされる。
この出来事から3年ほど、つい先日、無事、見送った。
いや、旅立ちを見届けたという表現が妥当かもしれない。
比較的、突然の別れだった。
確かに、不治の病を患い、何より超高齢だったので、いつでもおかしくなったが、想定よりは早かった。
こういう突然のとき、涙がボロボロと流れ出す中で本人とご家族に対面できれば、どれほど気が休まるだろう。
しかし、案外出ないものだ。
「ごめんなさいね、本当は涙の一滴でも流せればカッコがつくのでですが、今回はとにかく涙が出ません。何ていうんですかね、失礼を承知で申すと、やりきった感があって・・・」と、ご家族に伝えた。
付け加えるように、「今は、自分の手で見送ることができて、ただ、ホッとし、光栄です」と。
最期は病院かもしれないという話もチラホラとあったので、実は悲しい思いで包まれていたので、それが、臨終に接することができて、ついつい漏れ出た言葉だった。
大好きな患者さんで、ぼくが最期まで、と本当に願っていたので。
いろいろな物語があった。
患者さんも、ご家族も、ぼくを全面的に信頼し、いのちを預けてくれた。
一歩踏み出してくれた、ぼく側に。
となれば、ぼくが、一歩を踏み出さないわけにはいかない。
ぼくも、患者さんと家族側に、大きく、大きな一歩を踏み出して。
そして、手と手を取り合い、一緒に進む。
一緒に共同の、そして協働の物語を紡ぐ。
出会って8年ほど、一貫して、ともに歩んだ。
ところで、見送る数ヶ月前、ぼくは、とくさんに癌を見つける。
本人にも、家族にも伝えた。
「難しい病気があることは本当に苦悩だけど、癌があれば、堂々と麻薬を使える。ずっと辛かった、どうしても制御できなかった、あの、この痛みを、やっと取り除けるかもしれない」
癌が見つかってヨカッタ!?
医者がこんなことを言っていいのだろうかとも思った。
でも、率直な思いだった。
とくさんの最晩年は痛みとの戦いだった。
手術を受けたり、様々な痛み止めを使ったり、町医者の限りを尽くすも、痛みをゼロにすることはついにできなかった。
それが、モルヒネで制御できるかもしれない。
そう思うと、不謹慎ながら、喜びというか安堵感が強く襲ってきたのだ。
いろいろな物語があった。
診療を終えると、いつも握手をして別れた。
最期が近くなったあるとき、「先生から力をもらうようだよ」と力強く握り返してくれた。いつもと全く同じ笑顔で。8年間、全く変わらぬ笑顔。
奥様を、数年前、やはりぼくも一緒に見送った。
あれから5,6年。
独り身は寂しかったでしょうね。
でも、ぼくは楽しかったですよ。
一歩踏み出し、一歩踏み出すこと。
そして手と手を取り合う。
ありがとう、とくさん。
お疲れさまでした。
そして、さようなら。
〜オンラインサロンのご案内〜
総合診療をベースに、認知症治療と在宅医療、そして終末期医療に取り組んでいる、事象「患者バカ町医者」の松嶋大が、日々の実践をみなさんに共有し、またみなさんからも共有してもらいながら、これからの「医・食・住」を語り合うサロンです。
仲間を大募集します!
僕らの終わりなき旅も、いよいよ佳境に差し掛かってきました。
(終わりがないので、佳境も何もあったものでもないのかもしれませんが・・)
現在、事業の深化を進めています。
そこで、深化をより進化させるため、仲間を大募集します。
募集するのは下記の事業所です。
・なないろのとびら診療所
・オークフィールド八幡平
・一般財団法人なないろ未来財団
募集職種は、事務、デザイナー、運転手、社会福祉士、保健師などです。
この他でも、僕らの旅にご興味がある方がいらっしゃいましたら、やりたいこと、得意なことをお知らせください。適宜、あらたな仕事を創りますので。
また、リモートワークも歓迎いたします。基本、事業所に顔を出さず、ほぼリモートでもOKです。ですので、日本全国どちらに在住の方も歓迎いたします。場合によっては海外の方も。
移住や二拠点生活をご希望の方には、オークフィールド八幡平を住まいとしてご活用ください。オークに住まいながら、楽しくご勤務いただくことも歓迎いたします。
詰まるところ、何でもありです。
キャリアは問いません。
(苦手なところを捨てて)得意なところに集中して、楽しく働きたい方であれば、どなたでも歓迎です。
ご興味ある方は、まずお知らせください。
対面もしくはZoomにて語り合いましょう。
一人でも多くの方と素晴らしい縁でつながることを願っています。
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●お問合せ先
担 当:中村菊子、富樫
電 話: 019-601-3101
メール: info@kotonoha-group.co.jp
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